最近のラブコメ作品に言いたいことがある
最近のラブコメ作品を見ると、どうも中身が薄っぺらい淡白な作品が多いように感じる今日この頃。よくある展開として前半は主人公のハーレム展開から始まり、後半はヒロインを誰に定めるわけでもないグダグダな展開が続く。こんな間延びした冗長な作品がここ10年ほど量産され続けているのだ。
そんな冗長気味なアニメ作品の例として、ニセ○イや5○分の○嫁などが挙げられる。これらの作品は私が批判する量産型のラブコメに該当し、私は「ラブコメ量産機」と総称している。一方でラブコメとして成立していたアニメ作品としては、10数年ほど前にやっていたToHeartやのだめカンタービレなどがある。
これらの作品はきちんとヒロインと主人公の関係性が綿密に描かれており、決して薄っぺらな関係などでは終わらせていないのである。互いが互いに信頼し合える関係であるからこそ、お互いの傷を癒しあったり、トラウマを打ち明けたりすることができるのである。
ストーリーとしての面白みは自己と他者との認識の乖離、認識の共有、認識の不確実性によって生まれる。例えば私が人を殴ったとする。殴った側である自己はスカッとするし、気持ち良くもなるが、殴られた側の人間は非常に不快な気持ちになる上、自身のアイデンティティを貶された気分にもなろう。これが認識の乖離である。自身の痛みと他者の痛みは別物であり、他者を表面上で理解することはできても、完全に相手の深層心理までを読み取ることはできない。そこに、人間関係の複雑さがある。そして我々はその複雑さを楽しんでいるのだ。
なぜなら、人間関係というものは誰しも一度は経験するものであるし(生まれてすぐ一切人と関わらせないように隔離されていないのであれば)、人間関係の大変さは我々人類が最も理解するところだからである。であるからこそ、そこに苦楽を見出し、エンタメとして楽しめるのではないか。エヴァの真髄は「心の壁」である。これはまぎれもなく、人間関係の賜物であるし、自己と他者の認識の乖離によって生まれるものだ。
結論。おそらく最近のラブコメ作家は人と関わっていないのではなかろうか。恋愛経験が乏しい人間がラブコメを描いても面白くなる訳が無い。なぜなら、岸辺露伴が言うように、フィクションは現実世界を象って作られているのだから。
哲学とは
色は様々な要因によって構成されている。
部屋から差し込む光、人間の脳による認識という名の錯覚、質感という名のクオリア、サーフェイス……など。
まことに多様な物という物に作用される色であるが色彩反転などをみるとなぜか違和感を覚える。
そうか――。
人間は世界を都合良く認識できるようになっているのだ。
鬱病の人間が発症する幻聴は決してまやかしなどでは、ない。
脳内プログラムの緻密な構成が数ピクセルの狭間でバグってしまった。
よって彼らの認識する世界はよりクレイジーな構成で成り立つようになってしまった。
言うなれば、人間という生き物は変化に対応しうる生き物でありながら常に絶妙なバランスを保ち続けていると言えよう。